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 「神戸の壁」について

 
 「神戸の壁」
平成17年、旧津名町「しづかホール」の隣にあった頃の撮影。

 昭和の初め。
 今の「フレール・アスタ若松」の北向かい、おおむね「神戸アスタカレッジハイツ」が建っているあたりに、「若松市場」という公設市場がありました(現・神戸市長田区若松町三丁目)。
 両側に木造の建物が並ぶ形で、東西方向の通路が貫通した造りの市場には、その通路の中央あたりに鉄筋コンクリートの防火壁がありました。もし市場のどこかで火災が発生しても、少なくとも半分は被害を免れるようになっていたのです。

 とは、いっても。
 現実にこの市場を襲った「火災」は、峻烈を極めました。だれかが、ついうっかりと火を出してしまったのではありません。はじめからこの一帯を焼き尽そうと、それだけのために仕掛けられた火=太平洋戦争末期、昭和20年の「神戸大空襲」だったのです。
 市場は、焼失しました。市場の周りもみんな、焼けました。
 でも、市場の中央に仕込まれていた鉄筋コンクリートの壁は、残っていました。
 人々は、この壁にもたれかかるように、新しい町並みを築き直してゆきました。

 町には、戦争の傷痕も目立たなくなってきました。世界でも指折りの豊かな国として立ち直った日本の、その中でも際立って華やかな町。その中でもひときわ活気とふれあい、やさしさに満ちた町として、このあたりは発展し続けていました。

 平成7年1月17日。この町を、観測史上未曽有の「震度7」という強烈な地震が襲いました。「兵庫県南部地震」です。「阪神・淡路大震災」と名付けられたその被害の大きさは、世界中から注目を集めました。
 震災といっても、「揺れ」による被害だけではありません。むしろこの町を襲ったのは、その後にあちこちから発生した「火災」でした。町はほとんど焼失、目も当てられない惨状を呈しました。
 それでも、「壁」は再び、焼け残ったのです。残煙の燻る瓦礫の中、煤煙に染まりながらも毅然と立ち続けていたのです。

 2度の大火災に耐え抜いた「壁」は、地域でもひときわ目立つ存在でしたが、所詮はもう用の済んだ過去の遺物です。震災復興の都市計画が進められる中、一度は取り壊されることになりました。
 しかし「戦災と震災に耐えた壁を残してほしい」という声が上がり、これを受けた所有者が、解体を見合わせることを決めたのです。
 とはいえ、再開発が予定されている元の場所に、この壁を放っておくわけにはいきません。地域では、再開発工事の着工が迫っています。被災した町の復興に、被災者各位の生活再建に、工事を遅らせるわけにはいきません。
 平成10年、工事の着手寸前に、それを引き受けてくれたのが、同じ震災の被災地でもある淡路島・津名郡津名町(当時)でした。そして平成11年、「神戸の壁」は、同じ兵庫県内とはいえ、海を渡って津名町に移設、保存されることになったのです。
 さらに平成21年、「壁」は、津名町と周辺の自治体が合併して誕生した淡路市の「北淡震災記念公園」内に再移設され、天然記念物に指定された「野島断層」と同じ園内で、令和の今も震災の教訓を末永く後世に伝えるために公開されています。
 
 「神戸の壁」が淡路島へ運び出されるに当たっては、地上部分をブロックに切断して搬出・輸送、津名で改めて接合されるということになりました。すると、地下の基礎部分が残されます。
 この地下部分も、一部は「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」(神戸市中央区)の外構と、元の場所にほど近い神戸市長田区腕塚町「アスタくにづか」の地下に「ベンチ」として保存活用されています。
 そして。
 さらに一部は、ここ。「フレール・アスタ若松」に据えられた「大若地区震災復興記念碑」の台座として、さりげなく使われています。(→くわしくはこちら

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