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 大若地区震災復興記念碑「明日へわがまち」について



 「フレール・アスタ若松」の北側入口の植込みの中に、コンクリートの台座にステンレス板を乗せた、小さな記念碑「大若地区震災復興記念碑」があります。
 最上段に大きく「明日へわがまち」と刻まれた碑は、この住宅が竣工して住民の入居が始まった平成13年、新長田駅南大若復興協議会によって建てられました。
 碑面には、震災の被害とその後の住民による復興への取り組み、そして再開発ビルの竣工への経緯が簡潔に記され、関係者への感謝と、町の発展と子孫の繁栄を願う言葉で締めくくられています。
 またこの碑には、震災で亡くなった方々への慰霊の気持ちも込められ、この地区での犠牲者17柱の芳名がしっかりと刻まれています。
 上の写真には、記念碑の前に筒のようなものが並んで立っているのが見えるでしょう。
 これは碑が除幕された後、ある住民の方が犠牲者の皆さまへの献花のため、手づくりされた花筒です。ちゃんと、犠牲者の方々の数=17本、用意されています。
 ふだんの、なにげない日にも。この花筒には、気がつくと いつの間にかお花が活けられています。そして見苦しくなる前に、ちゃんとだれかが片づけてくれています。いろんな人が、いろんな機会に、おこころざしのままに、懐かしい人たちの面影を偲び、思い出を語り合うひとときが、あるのです。
 飾り立てたことばや、これ見よがしのおまつりさわぎは、要りません。しずかにたたずむこの銀色の記念碑が、みんなの心をつないでくれて、いるのです。

 …でも。何だかヘン… 「平成13年」の割には、台座のコンクリートが古めかしすぎるような…?
 実はこれ、町内にあった「神戸の壁」が、震災遺構として永久保存されるために淡路島へ運び出されたあと、地中に残った壁の基礎部分の一部を利用して作られたものなのです(くわしくはこちら)。昭和初年のコンクリートと、平成のステンレスプレート。こんなところにも、このまちの長い歴史がさりげなく、表現されています。
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