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「集い」について

  わたしたちは、震災の翌年から平成30年まで、毎年1月17日には「神戸の壁」の前に集い、この地区で犠牲となられた17柱の皆様に捧げる午前5時46分の「黙祷」や、献花、献灯を中心とする行事を催してきました。
 当初は、やっと瓦礫の撤去が間に合った空地で。神戸の壁にも、未だ震災当時の火災による煤が残り、触った手が真っ黒になるほどでした。
 次いで「神戸の壁」が、淡路島・津名町(当時)の皆様の御厚意により同地で永久保存されることになり、運び出されてからはその跡地に設けられた広場で。
 平成13年、復興住宅が完成してからは、フレールアスタ若松のエントランスに設置された「明日へわがまち」の記念碑の前で。毎年、17輪のカーネーションと、17本の蝋燭を用意して、黙祷を捧げてきました。
 やがて、時が移るに連れて、かつての「被災者」は、きちんと地に根を下ろした「生活者」へと暮らしを取り戻してゆきました。そしてみんな、確実に年齢を重ねてゆきました。そして去る人来る人、地区の顔ぶれも入れ替わってゆきました。同じ住宅の「一つ屋根の下」に住んでいても、「知らない人」が増えてきました。

 犠牲者の皆様を直接知らない人は、「追悼」といってもぴんとは来ない。無理もありません。

 震災の時にはまだ生まれてすらいなかった人には、震災も単なる歴史年表の一行。無理もありません。
 そんな人たちの中にも もう「お父さん」「お母さん」がいるのです。

 年齢を重ね、体力も衰えた人たちは、年中で一番寒い時期の一番寒い時刻、凍てついて滑るタイルの上を歩いて集う困難、危険。無理もありません。

 その点は、そんな催事に参加する人だけの問題ではありません。その催事の企画や運営を実際に担うべき住民だって、同じなのです。

 いつの間にか、当初の活動を保ち続けようと努めるボランティアたちの思いだけが先走りし続ける有様になってしまっていました。そして、そのボランティアたちも、年齢を重ね続けていたのです。
 平成30年の「集い」を終えた後、「では、そんな集いは止めてしまおう」。一時は、そう決定される寸前にまで至りました。

 でも、20年以上も続けてきた集いを、そう安易に止めていいのか。
 時刻?「午前5時46分」に拘らなくてもいいのではないか。号令一下の一斉黙祷?見た目には格好いいのかも知れないけれど、それぞれが、それぞれの形で思いを捧げればいいのではないか。
 それよりも、ふれあいの場を設けよう。
 あの日のこと、今日までのこと。この町のこと、ふるさとのこと、懐かしい人たちのこと。いいえ、そんなことに限らなくていい。さりげない世間話でもいい。愚痴でもいい。底抜けの馬鹿話でもいい。
 近代的な鉄筋住宅に移り住んで、気が付けば近くに暮らしていながら、ほとんど話したこともない人たち。普段ならこの町を訪ねてくれる機会もない人たち。誰でもいいから集まって、話そう。話したくない人は、黙ってお茶だけ 飲んで帰ってくれてもいい。
 ただみんな、それぞれのスタイルで「1・17」を、特別な日にしよう。
 そうすることで、ふだんはよけいな干渉なんかしあわずに、「有り得べき災害」の時には互いに支えあえる関係。お互いの知恵を分かち合える関係。そんな関係のきっかけになればいいな。

 ここ「フレールアスタ若松」には、もう長らく続いている恒例の催事があります。
 それは、月に一度の「ふれあい喫茶」。自治会の手で集会所を開放、真陽婦人会による喫茶店を開くのです。住民はみんな、この日を楽しみにしているのです。
 
 平成31年1月、本当なら第二日曜:13日に開くはずの この「ふれあい喫茶」の日取りをずらせて、あの震災の日付「1・17」に、臨時開店しました。
 「1.17希望の灯り」が揺らめく中、広く区民、市民、遺族の方、役所の方、震災の遺構や記念碑を巡礼なさる皆様など、いろいろな方にお立ち寄りいただいて、互いに出会い、ふれあい、語らい、この特別な日を共に過ごしていただけました。
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